プロローグ
赤、紅、アカ。
赤い空、紅い海、アカイセカイ。
補完計画は成り、サードインパクトは起こった。
しかし、その結果がこのセカイ。
動くものも無く、生きるものも無く、ただ緩慢な死が支配する世界。
ただ一人残された少年――碇シンジは、何をするでもなく紅いLCLの海を眺めていた。
遠くには巨大な、半分だけの、かつて綾波レイと呼ばれた少女の顔。
傍らにはすでに息を引き取ったかつての戦友――惣流・アスカ・ラングレーの亡骸。
どれほどの時間が流れただろうか。
一日? 一週間? 一年? それすらもシンジにはわからなくなっていた。
絶望だけが少年を支配する。
「こんなのって……こんなのって無いよ……」
シンジの心に悔しさと怒りが渦を巻く。
しかし、その言葉に力は無かった。
彼には知識と記憶があった。
サードインパクトの依り代としてこの世界のすべての人とつながり、アダムの分身たるカヲルとリリスの化身たるレイと邂逅した彼には、この世界のありとあらゆる人の知識と記憶が、その人生のすべてが流れ込んでいた。
もちろん、LCLに溶けた状態ならともかく、ATフィールドをまとい、人の身を取り戻した彼にはそれらを維持することはかなわず、手から砂が流れ落ちるようにそれらのほとんどは忘却のかなたへと消えていった。
しかし、それでも、彼には一人で持つには過剰ともいえる知識と自身にかかわったさまざまな人物の思いを知るにいたった。
初号機に取り込まれた妻を取り戻すため、ほかのすべてを犠牲とし、道具として生きてきた、傲慢な少年の父。しかし、最後まで彼自身は彼の思う妻が彼の思い出から生まれた妄想の産物であることに気づけなかった愚かな父。
そんな父を唯一止められたはずなのに、止めなかった、間違っていることを知っていながらも、かつて想いを寄せた教え子に一目会うという、欲望とすら言えない小さな望みに我を忘れた哀れな父母の恩師。
自分の復讐のために、少年を利用しようとした傲慢な女。その罪悪感から逃れるために少年の家族となった自分勝手な女。結局中途半端な距離しかとれず、自分と少年を傷つけた愚かな女。
男に利用されていることを知っていながらも、自分の母と男の妻への嫉妬とコンプレックスを男への愛だと言い聞かせ、自分を偽ってきた聡明で、そしてとても愚かな科学者。
兄と慕った男性。親友と呼んでくれた少年たちと学校のクラスメート。三人のオペレーター。
さまざまな人の顔と記憶がシンジの頭の中を過ぎ去っていく。
そして、彼にとってもっとも大事な二人の少女。
少年の父に利用され、絆と偽った鎖によって縛られ、自らの存在に苦しんだ無垢な少女。月のように儚く、そして、優しく微笑んだ白い少女――綾波レイ。
周囲によって心を歪められながらも、明るく育った、しかし激情と不安定な心を秘めた少女。太陽のように明るく、そして、華やかな笑顔を浮かべた金色の少女――惣流・アスカ・ラングレー。
「……アスカ……綾波……」
人々の記憶を得て、想いを知り、シンジは自分を恥じていた。
臆病で、弱虫で、何も知らず、何もできなかった自分を。
しょうがない、と心のどこかでつぶやく。
確かにしょうがなかった。全ての事態は彼のあずかり知らぬところで進み、彼も利用されたに過ぎない。
しかし「しょうがない」で済ませてしまうには、あまりにこの結末は酷いものだった。
すべての人類は生命のスープへと還元され、人として生き残ったのは自分ただ一人。
人類の魂を宿した生命のスープも、一つの統合された精神としての人類を留めておくことはできなかった。
LCLには過去の知識や記憶は眠っていても、生命は宿っていない。そして、これからも命が生まれ出ずることも無い。その先に待つのはただ緩やかな破滅だけだった。
「……もう、どうしようもないのかな……」
そして、思考の行き着く先はいつも絶望。
もうシンジには生きていることは苦痛だった。
「……このまま眠ったら二人に会えるかな…?」
そんな妄想とも言えるかすかな希望にすがり、すべてを放棄してその目を閉じようとした、
その時であった。
「これは……何があったんだ!?」
「ん……人の気配がぜんぜんしないけど、ものすごいエーテル」
「あ、お父さん! あそこに人がいるよ!」
「あの方から話を聞きましょう」
話し声と人の気配。
それに驚愕して振り向く。まさか自分以外に人が残っているなんて、とそう思いながら。
振り返ったその先には一人の少年と三人の少女の姿があった。
少年は年は17、8といったところか。黒い髪に強い意志を感じさせる瞳を持っていた。学生服と思われるブレザーの上から風変わりな羽織をまとい、腰には大きな剣を提げている。
一人の少女は少年と同じくらいの年に見える。青い髪と瞳の整った顔立ちにどこかぼんやりとした表情をしている。白いワンピースのような服の上から手甲と胸当てをつけ、手には柄の長い槍のような形状の美しい剣を持っている。
一人の少女は、年は14、5歳に見える。もう一人の少女と同じ色の髪と瞳によく似た顔立ちで姉妹のようにも見える。青を基調とした服で大きな杖を持っていた。
一人の少女は年は少年よりも少し上、そろそろ女性と呼んでもいい年頃に見える。赤みがかった黒髪を背に長くたらしている。何よりも特徴的なのはその服装、赤と白のコントラストが目に鮮やかな――巫女服だった。
ここに少年は四人の永遠者と出会った。この出会いが何をもたらすのか、少年は知らなかった。
運命の歯車が回りだす。再び、少年を戦いへと導く歯車の音を少年は聞くことはできなかった。