第二十話
「いつも悪いわね」
「本当にごめんなさい。私の分まで……」
「いいえ、御気になさらず〜」
恐縮した様子のマヤに、カオリはいつもの柔らかな微笑で答えた。
リツコとマヤの手にあるのはいくつかの紙袋。その中にはそれぞれの制服が入っている。
某作戦部長と違い、真面目に働く彼女たちには洗濯する時間すらあまり取れない。そこで、すでに高嶺邸の住人となったリツコのものはもちろん、ついでとばかりにマヤの洗濯までカオリが引き受けることになったのだった。
「お二人ともお忙しいのですもの。私がお手伝いできることはこれくらいですし」
にっこりと笑うカオリ。
「何なら日向様にもお伝えください。洗濯くらいならば、私が引き受けますわ」
いくらでもこき使っていただいてかまいません、とカオリは笑った。
別に彼女は自分を卑下しているわけではない。
カオリは自分がメイドであることに誇りを持っている。
自分には戦う力はなく、武器を作る技術もなく、戦いを補助する知識もない。だから、戦いにおいて主たちの助けとなることはできない。だが、あるいは、だからこそ、そのほかの場面で主たちを助けるのは己の職分であり誇りである。
できないことが恥なのではない。できることをやらないことこそ恥なのだ。
そんな彼女の想いが伝わったのかは分からないが、
「ありがとう。日向君にも言っておくわ」
「ありがとうございます」
リツコとマヤはカオリに頭を下げるのだった。
○○○
「行くわよ! レイ!!」
「負けない」
一方、高嶺邸の庭ではアスカとレイが対峙している。
レイは無手だが、アスカの手には彼女のパートナーである永遠神剣第六位『矜持』がある。
『矜持』は大きい。全長はアスカの身長を越え、2mほどはあるだろう。
柄を中心に両側に刃を持つダブルブレード。刃の外側を鋼の色が覆う他は、赤と朱と金で構成されており武器の無骨さとは無縁の艶やかさを持つ。
数メートルはあったはずの距離を、わずか一歩で詰めたアスカは手にした美しい朱金の刃を振りかぶり、
「はっ!」
レイに振り下ろす。
大振りだが、身体能力の強化されたアスカのスピードは、技術に関わらず驚異的だ。
だが、その一撃はレイの手によってあっさりと阻まれる。
もちろん、素手で受け止めたわけではない。その手にはアダム・リリス系神剣のお家芸『拒絶』のオーラ――A.T.フィールドが纏わされている。
「ちっ!」
必殺とまではいかずとも、十分に勢いのあった一撃をあっさりと受け止められたアスカは、舌打ちもそこそこに、柄を中心に回転させるように今度は下から打ち上げる。
しかし、これも予想していたかのような動きでレイは跳躍。
もはや人間の限界を越えた身体能力で、伸身の宙返りを決めながら、10mほどの距離をとる。
すぐさま追おうとしたアスカだが、レイは着地と同時に、
「アイスブリッド!!」
氷弾を放つ。
微妙にタイミングと狙いをずらして三連撃。
かわすのは困難。
アスカはこれに対し、
「ファイアクローク!」
炎のマナを纏う。
じゅぅ! という音を立て、三つの氷弾はアスカに触れる前に蒸発した。
それを確認することすらなく、アスカは再び距離をつめる。
走っていく勢いと腰の回転、腕の回転、手首の回転、そして剣の重みによって発生する遠心力すら利用した一撃。
レイはあえてそれを避けない。
「アキュレイトブロック!」
叫ぶ声に導かれ、風がレイの周囲を覆う。高密度の大気の壁を作り出す“緑”属性の技だ。
「は! ふ! や!」
かまわずアスカは二撃、三撃と連続した攻撃を放つ。
くるくると踊るように回転しながら、剣の重みを生かした、それぞれが十分以上の重みを持つ一撃。
わずかに後退しながらも、レイはあえて積極的な回避運動はとらず、防御魔法によって攻撃を防ぎ続ける。
己の魔法への自信もあるが、回避しながらの魔法詠唱やマナの集中は、まだ彼女にはできないのだ。
そして、アスカの攻撃と攻撃の合間の一瞬の隙を突いて、
「は!」
アスカの胸部に掌底を叩き込み、同時に、
「ブレイク!」
掌に集中していたマナを爆発させる。
その勢いのまま吹き飛ばされたアスカは、しかし危なげなく着地。
爆発の瞬間にあわせて後方に飛んで衝撃を殺し、残ったわずかな衝撃も身に纏うマナの障壁ですべて防ぎきっていた。
ふ。
に。
ほぼ同時に二人の口の端に笑みが浮かぶ。
「……マナよ」
「マナよ!」
二人の呼びかけに応じ、レイの手中に、アスカの周囲にマナが収束していく。
近接戦は終わり。次は遠距離の魔法による勝負。
「凍える青き氷のマナよ……」
「燃える赤き炎のマナよ!」
レイの手にするマナが青く染まり、アスカの支配下にあるマナが赤く燃える。
「永遠神剣が現身――レイの名において命じる」
「マナの支配者たる神剣『矜持』が主の名において――」
それぞれの支配者の命により、青きマナは主の手の中で急速にその密度を増し、赤きマナはその影響する範囲を大きく広げていく。
「氷のマナよ 破壊の鉄槌となりて敵を討たん」
「我が呼び声に答えよ! その威を示せ! 大地をめぐる炎の血潮!!」
レイのほうが若干詠唱が早いが、アスカの周囲に集まるマナの大きさも軽視できない。
「アセリア」
「ん」
「フローズンハンマー!!」
レイが放ったのは特大の氷塊を放つ魔法。
先ほどのアスカの防御を見て、小さいものをいくら撃っても無理という判断だろう。
「イラプション!!」
対するアスカは範囲攻撃魔法。大地に働きかけて下方向からマグマを噴き上げさせる大技である。
魔法を放った後の隙に、とっさにかわせない攻撃を行おうという判断である。
互いにその判断は正しく、そして間違っていた。
「オーラフォトンバリア!!」
「アイスヴァニッシャー!」
レイが放った氷塊は、白く輝くオーラフォトンの楯によって防がれ、アスカが放とうとした魔法は、青白く輝くマナによって停止させられた。
「はいそこまで」
アスカの前に立つのは、右手を前に突き出すユウト。
「……二人とも、熱くなりすぎだ」
呆れたようにレイの後ろで呟くのは『永遠』を地面に突き立てて構えるアセリア。
「はははは……ごめん」
「……ごめんなさい」
二人がやっていたのはもちろん訓練である。
『矜持』という力を手にしたアスカも、その力を使いこなすために、レイが行う早朝と放課後の訓練に参加するようになったのである。
結局、アスカもそのまま高嶺邸にいついてしまっていた。
アスカは神剣を手に入れたばかりでありながら、持ち前の努力と学習スピードの速さによって、ものすごい勢いで成長しており、いまやレイとの実力的な差はほとんどない。
ここまでなら良かったのだが、成長著しいアスカに対抗するためレイも手加減抜きで相手をする。そうすると、当然負けてなるものかとアスカも本気を出す。
これが続けばどうなっていくかと言えば、訓練ということを忘れた本気のぶつかり合いに発展してしまうのである。
「ったく……アスカはともかく、レイもわりと熱くなる性格だったんだな」
「ん……二人とも熱心なのはいいが、訓練だということは忘れるな」
呆れたように二人を見やるユウトとアセリア。
本気でやらない訓練に意味はないが、熱くなりすぎて怪我をしては本末転倒である。
なにより、
「あんな魔法使ったら、余波で家がぶっ壊れるぞ?」
まだ彼女たちは、自らの力の大きさがあまり理解できていないのだった。
例えば使徒一体一体の力は大体エヴァ一体と同じくらいだ。互角の相手と戦って苦戦しているのは、ひとえに相手の戦場で戦わざるをえない事態が多いからだ。砲撃戦となったラミエル然り、海の上での戦いとなったガギエル然り、マグマの中での戦いとなったサンダルフォン然り、である。
だが、シンジとアスカのもつ『福音』と『矜持』はそれぞれエヴァ初号機・弐号機の化身だ。むしろ剣のほうがエヴァの本体ともいえる。レイにしても分割され薄まっているとは言え内に秘める力は『福音』や『矜持』をしのぐ。
つまり、彼らは潜在的には生身で使徒に抗しうるほどの力を秘めているのだ。
だが、だからと言ってすぐにその力を使いこなせるわけではない。
力が強大だからこそ、十分な訓練を積み重ねなければ、その力を使いこなすことはできない。
それは、四年の修行を経たシンジにも言える事であるが、彼は自分の秘める力の大きさと制御できる力の大きさの差を認識しており、制御できる範囲で使うという技術を確立している。
一方、神剣の力に触れて間もないレイやアスカはまだこの感覚がつかめず、常に暴発の危険をはらんでいるのだった。
「まぁ、気持ちはわからんでもないが、あせらずやることだな。できることは努力することだけだ」
「ん……訓練した時間は自分を裏切らない。がんばれ、二人とも」
年若く見えても永の年月――エターナル以外の者から見ればまさしく永遠に等しいほどの――を戦いの中ですごし、たゆまぬ訓練を重ねてきた二人の戦士の言葉には、響き以上の重みと説得力があった。
「「はい」」
だから、二人は素直に頷く。心にある熱を隠す事無く。
大切な人の力になるために。大切な人を護るために。
そして何よりも、自らの想い人の側らに立つために。
彼女たちは力を求める。
そんな二人の目を見つめ、ユウトは思う。
(強くなるな)
横を向けばアセリアと目が合う。きっと同じようなことを考えているのだろう。
二人は、ふふ、と笑いあうと、
「じゃあ、アスカ。今度は俺と打ち合いだ。アスカの剣はでかくて重いから、力に任せるやり方もいいけど、もう少し重心ずらしてだな……」
「レイはこっち。レイは魔法が主体。だから、相手の攻撃を防ぎながらの詠唱と集中が重要。私の攻撃をかわし続けながら、マナを集中させ続けるんだ」
二人はそれぞれに指導を開始するのだった。
余談であるが、カオリから洗濯物をもらった後、訓練の様子を見たマヤとリツコは、その光景に呆然となり、シンジが夕食のために呼びに来るまでそのままだった。
「あんなエネルギー量、どこから持って来ているんでしょう……?」
「ホントに信じ難いわね……永遠神剣にマナにエーテル……どうにかして技術転用できないかしら?」
などという話題が食卓に上ったとか上らないとか。
○○○
次の日、NERVに出勤するリツコとマヤは連れ立ってモノレールの駅にいた。
「あら、おはよう」
「おはようございます」
「どもっす」
そんな二人の前に現れたのは、長髪にギターを背負い一昔前のヒッピーのような格好をした男性。
発令所の司令部付オペレーター青葉シゲルである。
手に持った紙袋には大量の制服がつめられている。
「クリーニング? 馬鹿にならないでしょう?」
「ははっ! まぁ、しょうがないっすからねぇ……赤木博士とマヤちゃんはどうしてるんですか?」
「私たちは……知っていると思うけど、私、シンジ君の家にご厄介になっているのよ」
そこで、マヤの分の洗濯もお願いしているの、とリツコ。
「あれ? その噂本当だったんですか?」
リツコとレイが家を引き払い、シンジたちの住む高嶺邸へ移ったという事実は噂としてNERV内に広がっていた。
住所を移したわけではなく、建前的には“泊まっているだけ”なのだが、部屋を一室もらい、生活の拠点は完全にそちらに移っている。
「それって、やっぱり例の噂が原因なんですか?」
そして、その原因は、例の噂――第八使徒戦の折、シンジとアスカの会話から広まった噂――が事実だからである、というのが、NERV職員たちのもっぱらの認識であった。
つまり、六分儀司令は妻の面影を持つ綾波レイを自らの人形にしようとしており、それを阻もうとしたリツコがシンジに助けを求めた、という噂がNERV内には広がっているのだ。
「……声が大きいわ」
明確には答えないリツコ。だが、それだけで肯定を示していた。
「……うぃっす」
そんなリツコの様子に、青葉は司令に対して怒ればいいのか呆れればいいのか判断に迷いながら頷いた。
微妙な沈黙が三人の間に広がっているうちに、リニアがホームへと滑り込んできた。
ぷしゅう、という音を立てて扉が開く。
その先にいたのは、新聞を開いた冬月だった。
「あら、副司令。おはようございます」
ごく普通に、と言うには少々冷ややかな声でリツコは挨拶をする。
「「おはようございます!!」」
後に続くオペレーター二人も緊張した面持ちで挨拶をした。
「ああ、おはよう」
対する冬月は、新聞からわずかに顔を上げてそう返すと、すぐにまた新聞に顔を落とした。
同時にドアが閉まり、リニアが発車する。リツコは冬月の隣へと腰を下ろした。
「今日はお早いのですね」
「ああ、六分儀の代わりに上の街だ」
物怖じしないリツコの様子を見て、少しだけ顔をしかめながら冬月は答えた。
「今日は評議会の定例でしたね」
「下らん仕事だ。奴は昔から雑務はすべて私に押し付ける。MAGIがなければお手上げだ」
しかし、その表情もすぐに追い出し、何時もの好々爺然とした顔をしつつ、愚痴をこぼす。
「そういえば市議選が近いですね、上は」
「市議会は形骸に過ぎん。ここの市政は事実上MAGIがやっとるんだからな」
「市議会はMAGIの決定に従うだけなんですか?」
内心で呆れつつ、マヤは問いかけた。
「ああ。三系統のスーパーコンピュータによる多数決。きちんと民主主義の基本にのっとったシステムだ」
リツコとマヤは少しだけ顔を見合わせる。
内心で呆れているのは同じだ。
以前は疑問に思わなかった。マヤであれば「まさに科学万能の時代ですね!」などと嬉しそうに語ったことだろう。
だが、民主主義と嘯きながら、この街はMAGI、つまりはNERVに支配されているに過ぎない。
市議会の形骸化に呆れているようなことを言いながら、そうなるように仕向けているのはNERV司令部。ほかならぬ冬月本人とゲンドウだ。
リツコとマヤは内心で呆れつつ笑いの衝動をかみ殺した。
零号機はもう一人のレイとして覚醒しており、初号機はもとより『福音』としてシンジの制御下にある。そして、先の使徒戦において弐号機も『矜持』として覚醒し、契約者として当然のようにアスカを選んだ。
NERVの根幹を支える存在であるエヴァは、三人の子供によって完全に掌握されていることをこの老人も彼の上司の男も知らないのだ。
二人が呆れていることに気付かずに、今度は冬月が問いかけた。
「そちらは零号機の実験だったかな?」
「ええ、改修も終わりましたので。本日1300より、第二次稼動延長試験の予定です」
「朗報を期待しておるよ」
冬月はリツコを見もせずに言った。
「ところで、レイは元気にしておるかね?」
「……ええ」
探るような冬月の言葉に、リツコは少しだけ逡巡したものの、素直に答えることにした。
他人の心を見ようとしないゲンドウはともかく、この老人は自分の叛意に気付いていることだろう。
しかし、だからと言って今すぐに自分をどうこうできるわけではないことにもきちんと気付いている。
使徒戦のさなか、技術部を一手に取り仕切るリツコの手腕がなければ、この先どうあっても戦えないことなど明白だ。
普段は電柱でも、だてに副司令などという要職についているわけではないのだ。
「……ならばいいよ」
本当に少しだけ、仮面をはずした冬月は、リツコにだけわかる憎憎しげな声で答えた。
「ところで副司令」
「何かね?」
二人の会話が終わるのを待っていたかのように、青葉が話しかけた。
「この前から一つお聞きしたいことがあったのですが、よろしいでしょうか?」
「……かまわんよ。言ってみたまえ」
では、と青葉は許可を得てなお迷う様子を見せながら、
「上層部の人事に口を挟むつもりはないのですが……何故、作戦部長を更迭されないのですか?」
迷ったわりに、かなり辛辣な問いかけだった。つまり「現作戦部長は更迭されて当然だ」と言っているに等しい。
リツコとマヤも驚いて青葉の顔を見つめる。
そんな彼の顔は真剣だ。彼もまた、自身の上官と、それに唯々諾々と従う自分の姿勢に疑問を持ち始めているのだ。
子供たちのために上官に抗することをためらわない日向の姿勢は、確実に彼に影響を与えていた。
「……彼女の失態に関しては、相応の処罰を下している。それに、作戦部は上手く機能しているではないかね?」
青葉の問いに一瞬動揺しながら、とりあえず建前の答えを述べる冬月。
だが、一度疑問を口にした青葉は止まらなかった。
「はっきり申し上げて、作戦部が機能しているのはマコト……失礼、日向二尉の手によるところが大きいと考えます」
さらに続けて、彼は第八使徒戦時のとある一件に言及する。
「彼女は、守秘回線に切り替える前にA-17を示唆しました。作戦部長としてどうこう言う以前に、特務機関の人間としてあまりに配慮に欠けると考えます」
「む……」
青葉はなおも続ける。
「ここしばらく、日向二尉が監督していたこともあって真面目に仕事をしていたようですが、また最近各部署を視察の名目で邪魔して回っているという話も聞きます」
最後に繰り返すように青葉はもう一度尋ねた。
「何故、司令部は作戦部長を更迭されないのでしょうか?」
これに対し、冬月は散々悩んだあげく、結局権力に物を言わせることにした。
「青葉君、言いすぎだ。今のは上官批判だぞ?」
そう言って睨む。
「今回は勤務時間外だから不問だが、発言には気をつけたまえ」
「は! 失礼しました!」
青葉は素直に謝った。
だが、彼はどこかすっきりしたような顔をしている。
そんな青葉の様子に、少々驚きながらも、リツコとマヤは笑顔を向けるのだった。
○○○
NERV本部内第二実験場。
以前、零号機の再起動実験が行われた施設である。
そこで行われているのは零号機の第二次稼動延長試験。
つまり、改修が終わり電装系統や内部電源が制式のものとなったので、その調整を行うための実験だったのだが、
「やれやれ、私たちがやることなんてまるでないわね」
呆れたようにつぶやくリツコに、マヤは忍び笑いで答えた。
零号機ももはや“人格”と呼べるものを有している。
『福音』や『矜持』と違い、明確な会話を交わすことはできないが、レイはその意思を感じることができ、意思の疎通が可能である。
レイは改修途中の零号機の元をたびたび訪れては「お姉ちゃんたちの言うことをよく聞くのよ」と言い聞かせていたのであった。
零号機に融けているのは一人目の綾波レイ。リツコが“姉”として接したのは彼女だ。
その記憶はもちろん二人目――今現在の綾波レイに受け継がれているが、零号機もまた彼女の“妹”には違いなかった。
納得するのに時間はかかったらしいが。
さて、そんな零号機がリツコやマヤの行うことに異を唱えるはずもなく、むしろ自分から新しい装備に合わせて体を調整しており、今回の実験でも技術部の仕事はまさしく“微”調整だけだった。
「一応、もう一回最初からね」
「はい」
リツコはそう命令を下すと、窓の外に見える青い装甲に身を包んだ零号機に目をやり、
「もう少しだけ我慢してね?」
誰にも聞こえないように呟いた。
○○○
日向はのんびりと駅への道を歩いていた。
今日は久しぶりの遅番である。ここを乗り切れば明日は非番だ。
しかも、時間があったために散々惰眠をむさぼることができた。それでも何時もより二時間遅れの八時には目が覚めてしまった。
一瞬、遅刻と思って大いに慌てたのは彼だけの秘密だ。習慣というものは恐ろしい。
本当は久々に家の掃除などをしようかと思っていたのだが、ほとんど寝に帰るだけの家なのでさほど汚れてもいない。窓を開けて換気をしつつ、軽くほこりを払う程度で終わってしまった。
制服をクリーニングに出し、軽く掃除をして昼食を摂ったらやることがなくなってしまった。結局、散歩がてらにクリーニングに出した制服を取りに行ってそのままNERVに向かうことにしたのだった。
我ながら仕事熱心だなぁ、などと苦笑をもらしつつ、日向は歩く。
遠くに聞こえるセミの声や子供たちがはしゃぐ声。第三新東京といっても少し都市部を離れれば、こんな下町のような風景も広がっている。
遠くに聞こえる選挙カーの声さえも日常を象徴するように感じて日向は嬉しくなった。
そして感じるのは、自分たちのやっていることの意味。
この風景を護っているのは自分たちなのだ。
自分たちが護った街で笑っている人々を見ることが、こんなにも心に響くとは思っていなかった。
感慨深く日向は呟く。
「がんばらないと、な」
子供たちのためにも、ここに暮らす人のためにも。
そんなことを考えつつ、歩いていた日向は赤信号に出会って立ち止まる。
だが、
「あれ?」
突然、信号が消えた。歩行者用だけではない。車用のものもすべて止まっている。
訝しげな表情を浮かべる日向。
第三新東京市大停電の始まりだった。
○○○
アスカとレイが妙に仲がいい。
シンジがそのことに気付いたのは、サンダルフォン戦から数日後のことだった。
二人だけで内緒話をしていることも多いし、互いの部屋で一緒に寝ていることも多いようだった。
「ま、仲がいいのはいいんだけど……」
そして、妙にシンジに接近してくることが多くなった。
左隣は元々レイだったが、右隣の席に座っているのがアスカに変わっていたときはさすがに驚いた。
代わってもらったの、先生の許可は取ってあるわ、などとあっけらかんと言われてしまうともう苦笑するしかない。
登下校時はもちろん、学校でも何かにつけて身体的な接触を図る。
いまや、シンジの移動時のスタイルは右手にレイ、左手にアスカがくっついているのがデフォルトになっていた。
「なんや、センセ、両手に花やのう」
「三人だなんて不潔よ〜!」
などとからかわれたり、叫ばれたりしつつも、腕にしがみつく二人が綺麗な笑顔を見せてくれるので、
(かなわないなぁ……)
シンジはされるがままに任せるのだった。
「ねぇ、シンジ。アタシ上手くなったかな?」
その日の帰り道も、シンジは右手をレイに、左手をアスカに取られながらNERVへの道を歩いていた。
「うん。もちろんユウトさんたちに比べればまだまだだけど、十分戦闘には耐えると思うよ」
「それじゃあ……!」
顔を輝かせるアスカにシンジは力強く頷く。
「アスカのお母さん……キョウコさんのサルベージもできるはずだ」
そう、シンジは言った。
アスカが訓練に励んでいたのは、レイに追いつくためだけではない。
シンジたちによって語られた話の中にはエヴァの秘密――操縦者の肉親がインストールされていること――も語られていた。
そして、ユイがシンジの母親であり、サルベージを行ってこうして外界に出てきたということを。
当然、アスカは自分の母親もサルベージする、と言う。
だが、弐号機に融けたアスカの母・キョウコをサルベージするためのは『弐号機=矜持』の契約者たるアスカがマナとエーテルを操る技術を習得することが不可欠。
そこで、アスカは訓練に励むことになったのである。
「今日……なんだよね?」
「多分ね」
「もう、切れてるみたい」
答えるシンジに続くようにレイが言う。
指差す先には光の消えた信号機。
それを見たシンジは微笑を消して真剣な表情になる。
「よし、本部に急ごう!」
「わかった!」
「……!」
勢いよく返事をするアスカと、無言で頷くレイ。
三人は、周囲を見回して人がいないことを確認すると、神剣の力を解放し、人の身の限界を超えたスピードで走り出した。
シンジたちが選んだサルベージのタイミング。それは第九使徒を倒した直後だった。
『前史』では内務省の工作により第三新東京市は大停電に陥り、それによって使徒殲滅が困難になったのだが、逆に言えば停電の間は監視の目が届かないと言うことでもある。
それに、第九使徒「雨を司る天使」マトリエルはとても弱かった。パレットライフルで倒せた使徒は後にも先にも彼だけだ。
油断するわけではないが、シンジたちは監視の目の届かない状況でアスカとレイの実戦とキョウコのサルベージを行うつもりだった。