第二十六話
『では、第十一使徒侵入の事実は無い……と?』
「はい」
確認するように念を押すキールの言葉に、ゲンドウは不遜とも取れる態度で頷いた。
人類補完委員会特別召集会議。
先のイロウル侵入――公式にはその事実は無いのだが――を受けて危機感を抱いたSEELEがゲンドウを問い質すために開かれた会議だった。
『気をつけたまえよ六分儀司令。この場での偽証は死に値する』
「必要ならばMAGIのログを調べてもらってもかまいません。そのような事実は記載されていません」
『笑わせるな。事実の隠蔽、情報操作は君の十八番じゃないか』
「…………タイムスケジュールは死海文書の記述どおりに進んでいます」
委員の一人からの言葉をはぐらかすようなゲンドウの言葉。
この場にいる誰もが、これが茶番であることを認識していた。
ゲンドウとてSEELEがNERV内に内偵を放っていることは知っているし、SEELEもそれをゲンドウが知っていることを知っている。
つまり、使徒侵入の事実があったことをこの場にいる全員が知っているし、それを隠そうとしているゲンドウもこの場の全員がそれを知っていることを知っている。
『まぁ良い。この場で君の罪と責任には言及しない』
重く響くキールの声が暗闇に満ちる。
『だが……君が新たなシナリオを作る必要はない』
(文句を言うしかできない老人共め……)
内心での嘲笑をサングラスと口の前で組んだ手の下に隠し、ゲンドウは答えた。
「分かっております……すべてはSEELEのシナリオの通りに」
○○○
「戻ったか。委員会の連中はどうだった?」
「相変わらずだ。老人どもは文句しか言わん」
ネットワーク上での会議を終え、司令執務室へと戻ったゲンドウを迎えたのは、冬月だった。
「昨日、俺のところにもキール議長直々に計画遅延の文句が来ていたぞ」
「E計画もアダム計画も2%の遅れも無い……老人達は何が不満なのだ」
無表情の中にどこか憮然とした響きを持ったゲンドウの声に、冬月は苦笑しながら応える。
「肝心の人類補完計画が遅れている」
「全ての計画はリンクしている。何の問題も無い」
言いながらゲンドウは自分の椅子に腰を下ろした。そして顔の前で腕を組む何時ものポーズをとり、
「赤木博士からの報告は来ているか?」
「ああ、先ほどな」
ほら、と冬月はプリントアウトした紙の束をゲンドウに渡す。
先の使徒戦でエヴァが起こした物理法則を無視した現象に関する技術部からの報告書だ。
10分ほどの時間をかけてゲンドウはその書類に目を通した。
内容は要約してしまうと「A.T.フィールドの応用」の一言に集約される。
A.T.フィールドのエネルギーを転用できれば、先のような現象は起こすことが出来る。そして、転用が可能なことは図らずも自分達の敵である使徒が証明している。第五使徒の加粒子砲や第四使徒の光の鞭もA.T.フィールドのエネルギー転用の例である。パイロットの証言も踏まえると、以前から見せていた初号機の発光現象や先の戦闘で見せた弐号機の炎や零号機の冷気なども「パイロットの強いイメージによるA.T.フィールドの作用の変化」と考えることが出来る、と言うようなことが書いてあった。
もっともその後には「現状ではそのように解釈することしか出来ず、先の現象の完全な解明には使徒とは何か、エヴァとは何かと言った議論やA.T.フィールドの作用機序、ひいてはS2機関の完全なメカニズム解明の必要がある」と言う文章が続いている。
つまり「こう解釈することは出来るけど、詳しいことはわかりません」と言うわけだ。
「……信じられると思うか?」
「信じるしかあるまいよ」
無表情に問うゲンドウに、冬月は忌々しげに答えた。
「まぁ、原理に関しては信用できるだろう。実際そうとしか考えられん」
A.T.フィールドの応用という言葉にはそれなりの説得力を感じている冬月はそう言いつつ、続ける。
「しかし、このネーミングはいかがなものかな」
報告書には「この『A.T.フィールドのエネルギー転用による現象』を便宜的に“魔法”と名付ける」とあった。
リツコにしてみれば彼の現象はシンジ達から説明を受け、科学的に、はともかく少なくとも論理的には説明できるものであり、その名前が“神剣魔法”なのだ。その名前が意味するのはオカルティックなわけの分からない儀式ではなく、確立された技術。特に抵抗を感じる名前ではなくなっていた。
さすがに“神剣”をつけるわけにはいかなかったらしいが。
「……問題ない」
何時もの台詞で答えるゲンドウ。
「そうだな。それよりも問題なのは、パイロットたちがその力――魔法を意図的に使用できるか否かだ」
「…………」
「先の戦闘を見る限り、俺には彼らはその力を自覚し、使いこなしているように見える」
「…………」
「で、六分儀。お前はどうするつもりだ?」
エヴァのパイロットに必要とされるのは、使徒を倒すだけの力――ではないのだ。この二人にとって。あるいはSEELEにとって。
SEELEにしてみれば、パイロットに必要とされるのは他者を求める弱き心。
ゲンドウと冬月からしても、パイロット――シンジの役目は使徒を倒すことではなく、戦いにおいて親=初号機に眠るユイの魂にすがり、それを目覚めさせることなのだ。
レイは彼ら主導の補完計画のためのキーであり、そのためNERVにおいておくのに都合がいいからチルドレンにしているに過ぎない。可能ならば本部の最下層に幽閉したいくらいだ。
アスカに至っては戦闘の駒でしかない。
「……使徒戦は続く。もうしばらくは好きにさせてやる。だが、それでもユイが目覚めなければ……」
「……力ずくでも、か」
冬月の言葉を無言で肯定するゲンドウ。
「だが、シンジ君は力ずくでどうにかなる相手か?」
「……奴の居場所をNERVだけにしてしまえばいい」
それはつまり、
「友人も家族も……高嶺の家の子たちも排除する、と言うことか」
「……シンジが壊れれば、レイも返って来る」
「……そうだな」
いまだ妄執に取り憑かれている男と老人は、その後も少年の心を壊すために話し合いを続けるのだった。
○○○
「ユウト様、どのようなご用件ですか?」
その日、ユウトは学校が終わってすぐに黒服隊のセイフハウスを訪れていた。
他のメンバーは出払っているのか、ユウトに応対したのはリーダーを務める白石アキラ。
「ああ、とりあえず話半分くらいで聞いておいてもらいたいんだが……」
ユウトは先の戦闘が終わった後、ゲンドウに不穏な雰囲気を感じたことを話し、
「だからどうこう、ってわけじゃないんだが、とりあえず気にしておいてもらえるだけでいい」
そこでいったん言葉を切り、真剣な表情を浮かべる。
「俺やシンジ達は自分で身を護ることができる。でも、俺やシンジたちの友人にはそうじゃない人のほうが多い」
それを狙ってくるかもしれない。シンジやレイやアスカの心を壊すために。
「……了解しました。シフトを組みなおしてみます」
怒りを抑えたアキラの声。
彼にとってもシンジは信頼に足る主であり、彼のもっとも敬愛する人物碇ゲンイチロウ翁の孫。
それを傷つけようというだけでなく、心を壊そうなどと考えるものがいるというだけで目も眩むような怒りを感じる。
しかも、それを考えているのはシンジの実の父親なのだ!
アキラは吹き上がる怒りを感じ、すぐにそれを押し込めた。
強い感情はエネルギー源ともなるが、それを制御できない人間はプロの戦闘家には成れない。
努めて冷静さを維持しつつ言葉を続ける。
「その分、高嶺の皆様の護衛は減るかもしれませんが……」
「それはかまわない。俺たちは大丈夫だ」
間髪いれずにそう答えるユウトに、少しだけ苦笑する。
「分かりました。それでは皆様につけるのは、監視している連中を監視する人員だけにして、残りは全て皆様の友人の護衛に回しましょう。それと本家に連絡して諜報戦の人員を呼びます」
誰が狙われるか判明すれば、その分効率的に護衛を付けることができます、とアキラは続ける。
当然ながら、第三新東京市においてNERVの力は絶対に近い。
アキラもユウトも完全に自分達の関係者を護衛しきることができるとは思っていなかった。
クラスメイトだけで30人以上。学校全体になれば数百人単位になる。さらに、場合によってはその家族も含めれば軽く千人を超えるだろう。その全てを護りきることができるとは思えない。
だが、
「一人でも多くの人を護り、少しでも長くシンジたちが後ろを気にせずに戦えるように」
「は。心得ております」
二人は視線を合わせて口元だけに笑みを浮かべる。
幾多の戦場を乗り越え「護る」と言うことを実践した者同士のシンパシーとも言おうか。
「それじゃ、具体的なシフトと護衛対象の優先順位付けも必要か?」
「そうですね、それでは……」
口に笑みを浮かべたまま子供達の心を護るための話し合いを続ける二人。
彼らには知る由もなかったが、その姿は暗い地の底で話し合いを続ける二人の男と非常に対照的だった。
○○○
土曜日。何時もは夕方まで続く授業が半日で終わり、しかも次の日は休みという、全ての学生が心待ちにする日。
しかしながら、そんな土曜日でも授業の全てが終わってすぐに生徒たちが学校から開放されるわけではない。
HRがあるし、その前には掃除の時間と言うものが存在する。
アスカにはこの“掃除の時間”というものが理解できなかった。
“教育”とて商品だ、とアスカは認識している。
権威に弱い日本人には馴染みのない思考だが、学校という場は“生徒”と言う客に“教育”と言う商品を提供する場であることは、一つの真実である。
さて、ここでアスカが問題にしていることは「客に掃除をさせる店が果たしてあるだろうか?」と言うことだ。
しかも、この学校は生徒に掃除をさせておきながら、定期的に清掃業者に依頼して校舎の清掃をさせているのだ!
私たちのやっていることは無駄ではないのか? こんな時間を作るくらいならもっと別の使い方があるのではないか?
そんなことシンジに話して聞かせたとき、彼は苦笑して答えたものだ。
「自分の使ったものを自分で片付ける……ひいては自分のやったことに責任を持つ、といったことを学ばせたいのさ」
義務教育――誤解されがちだが、義務教育の“義務”とは「教育を受ける義務」ではなく「教育を受けさせる義務」であるのだが――を終えた人間は社会にでることを許される。
逆に言えば中学校を卒業するまでに社会人として必要な一般常識くらいは身につける必要がある、と言うことらしい。
まぁ、理解できなくは無い。出来なくはないが、納得も出来ない。
「納得できなくても従わなくちゃいけないこともある、ってことを学べただけでも意味があるんじゃない?」
苦笑を浮かべつつも、楽しそうなシンジを思い浮かべて、
「なによ、もう」
アスカは箒を手に一人頬を膨らませていた。
「どうしたの、アスカ?」
「ヒカリ? ん〜ん、べつに」
教室から廊下に顔だけをのぞかせたヒカリがアスカに話しかける。
アスカはむくれた顔のままヒカリに振り返った。
彼女にこの時間の無駄について演説をしてもいいのだが、ヒカリにとっては小学校から数えて8年も続けてきた習慣なのだし、自分の価値観を押し付けようとは思わない。まぁ、そこまで大げさな話でもないのだが。
「何か用?」
「え、あ、その……」
尋ねられると、ヒカリは急に視線をそらし、言いづらそうに口をもごもごと動かした後、
「明日、暇?」
と尋ねた。
○○○
教室の床に膝をついて雑巾を絞るレイの姿をシンジはぼんやりと眺めていた。
(うーん、なんて言うんだろう……やっぱり“お母さん”って感じだよな……)
ユイに似ている、とかそういう事ではなく、その仕草に“母”を感じるのだ。
(結局、僕って“母親”に育てられた記憶って無いんだよな……)
なのに――いや、“だからこそ”だろうか。レイに母親を感じるのは。彼女の静かで優しげな雰囲気はシンジのあこがれる“母親”の気配なのかもしれない。
シンジにとって“母親”とは、ある種のあこがれる存在であり、未知の存在だ。今回の歴史ではともかく、『前史』の彼が「先生」と呼んだ他人の家では、自分の母親について一人で空想したこともあった。
「シンジ君?」
レイを見たままそんなことを考えているうちに、その視線に気付いたのか彼女が話しかけてくる。
「どうしたの?」
「うん、綾な……じゃない、レイが雑巾絞ってるところがさ」
『前史』の感覚に戻っていたのか、一瞬以前のように「綾波」と呼びかけそうになった自分を少し苦笑する。
「“お母さん”みたいだな……って思って」
「?」
シンジの言葉に小首をかしげるレイ。
「母さんに似てるとかじゃなくって、なんて言うのかな……僕の中にある“母親”のイメージに近いって言うのかな?」
「よく、分からない」
私は、母親にはなれないから、と呟き、レイは少しだけ悲しげに微笑んだ。
「……ごめん」
「……いい。シンジ君はほめてくれたんでしょう?」
「……うん」
二人の間に沈黙が落ち、
「でも」
耐え切れないかのようにシンジは口を開いた。
「でも、もしレイが母親になれたら、きっと良いお母さんになる。子供に好かれる、いいお母さんに」
その言葉に、レイはびっくりしたように目を見開き、くるりとシンジに背を向ける。
「……何を言うのよ」
「……そうだね、ごめ……」
「でも……」
ごめん、と謝ろうとしたシンジの言葉を遮るように、
「ありがとう」
そう呟くように言ったレイの頬は赤く染まっていた。
それに気づかないシンジは、
「うん」
と嬉しそうに微笑んだ。
と、
「ええ加減こっち向かんかい!」
「え?」
その言葉に右手に視線をやると、いつの間にか手にした箒が横に構えられて肩の高さまで上っていた。
その箒は先ほどの声の持ち主――トウジの持つ箒の一撃を受け止めているらしい。
「そ、掃除中にぼうっとしくさってからに……なにをいやーんな雰囲気を出しとんねん!」
彼はレイを見つめるシンジに悪戯しようと、箒で打ちかかったのだが、無意識のシンジに片手であしらわれていたらしい。
「トウジ? 何やってんの?」
「くっ!」
そして、自身が彼の攻撃を軽くあしらっていた事実に気付いていすらいないシンジの何気ない問いは、彼の矜持をいたく刺激するものであった。
「この!」
「?」
怒りに任せて打ちかかってくるトウジの箒を、シンジは不思議そうな顔をしながら右手の箒ではらっていく。
頭に血が上っているのか、トウジの顔には余裕が無い。我を忘れて本気になっている、と表現することも出来るだろう。
その攻撃は喧嘩殺法と言おうか、例えて言うなら剣道の試合で通用するようなものではないが、その分早く鋭く、汚い。もちろん「中学生にしては」あるいは「素人にしては」と言う但し書きがつくのだが。
対するシンジは、いっそ緩やかな美しいとさえ言える動きでもってトウジの攻撃を受け流す。
小首をかしげながら、その足も胴体も全く動いておらず、動かすのは右手のみ。それだけでこの二人の実力差が伺える。
周りの生徒達はその攻防――主にシンジの実力に驚いていた。
1分ほど続いたその攻防は、やがて体力を使い切ったトウジが荒い息を吐きながら膝をつく、と言う結果に終わった。
ちなみに、シンジは最後まで不思議そうな顔をしていた。
○○○
「は!? デート!?」
そんな声が廊下から聞こえたのはトウジが膝をついてすぐだった。
「アスカ?」
シンジとレイは二人で顔を見合わせ、ドアから廊下を覗いた。
そこでは、当惑した様子のアスカにヒカリが手を合わせて頭を下げると言う珍しい情景が展開されていた。
「お姉ちゃんが、友達にどうしてもって頼まれちゃったらしくて……」
「でも、デート、ねぇ……」
眉を寄せるアスカは、そこでこちらを見ているシンジとレイに気がついた。
そこで、何かを思いついたような表情を浮かべるアスカ。
「ごめん、ヒカリ。明日は用事があったのよ。今思い出したわ」
「え? でもさっき明日は暇だって……」
アスカはえへへ、と笑いながらシンジとレイを手招きした。
「どうしたの、アスカ?」
何時ものように右手にレイをくっつけたシンジがヒカリの後ろから近付くと、アスカはスキップするような歩調でシンジの左手にくっつく。
そして、ヒカリに視線をやると、
「ごめんね、明日は三人で出かける約束をしてるのよ」
「え? そんな約束してたっけ?」
と、尋ねてくるシンジの腹に肘を押し付けて黙らせると、そのままシンジの背後に回り、レイを手招きする。
アスカと同じくシンジの背後に回ったレイは、やや憮然とした表情で言った。
「そんな約束してないわ」
単純に「嘘はいけないこと」という認識で怒っているだけなのだが。
「分かってる。でも、ヒカリのお姉さんの友達とやらにデートに誘われちゃったのよ」
上手く断るには用事が入っている、と言うのは良いやり方でしょ? とアスカは微笑む。
「でも、嘘はいけないわ」
と渋るレイだったが、
「これで、明日はシンジと出かけられるのよ?」
「分かったわ」
その言葉がでた瞬間即座に頷いていた。
シンジとすごす時間は、彼女にとってどんなことよりも優先すべきことなのだ。
アスカはそんなレイの様子に満足そうな笑みを浮かべた。
頷きあった二人はそのまま、ヒカリに向き直る。
「明日が楽しみだわ、シンジ」
「ええ……三人でお出かけ、それはとても楽しいこと」
「う、うーん……まぁ、二人がそう言うならそれでも良いかな」
「というわけで、ごめんねヒカリ」
「……ふぅ、分かったわ」
一つため息をつくと、ヒカリは頷いた。
彼女もアスカの言葉が口からでまかせであろうことは分かっていたが、この少女たちが心から少年を想っていることを知っている。口を出すことは野暮に思えた。
(不潔……でもないかな?)
三人の様子は男女の関係よりも先に信頼しきった仲間や家族同士のそれを思わせる。
さらに言えば、二人の少女の恋心は本当に純粋で無垢だとヒカリは思う。
最初のころこそ「不潔だ」と口に出していたものの、最近ではその様子を見ることが楽しみにすらなりつつあった。
そして今も、明日のことについて話し合う三人を微笑ましげに見つめるのだった。
○○○
赤茶けた土に覆われた土地が地平の彼方まで続いている。
遠くにはかすかな起伏を見せる山々と、傾いたビルや折れた電柱が並ぶ。
それは都市の残骸。15年前までは確かに人の営みがそこにあったことのかすかな残滓だった。
そんな砂漠を思わせるような光景の中、延々と人工物が立ち並ぶ。
黒い棒、と表現するのが分かりやすいだろうか。等間隔で並んだそれは、上空から見れば桝目模様のように整然と並んで見えるだろう。
その棒にはよく見れば人の名前と二つの年号が刻んである。
それは墓標だった。
ここはセカンドインパクトとそれに続く動乱の中で命を喪った人たちが眠る場所であった。
そんな無数の墓碑の並ぶ荒涼とした墓地に佇む人影があった。
サングラスと濃い髭で表情を隠した男。身を包むNERVの制服の造りと色は彼のみが身につけることを許されたものだ。
NERV本部総司令、六分儀ゲンドウであった。
何をするでもなく、ぼんやりとした様子で目の前の黒い棒を見つめる。
それに刻まれている名は「碇ユイ」 かつて男の妻であった女性の名前だった。
否。彼自身はいまだ彼女が自分の妻だと信じている。
エヴァンゲリオン開発初期の事故によって初号機に融けてしまった妻。己の唯一の理解者を取り戻すためだけに、彼は今まで生きてきたのだ。
「ユイ……もうすぐ。もうすぐだ。もうすぐで逢える」
じっと妻の名が刻まれた墓碑を見つめながら呟くゲンドウ。
アダムもロンギヌスの槍も己の手の中にある。シンジは思い通りにならないが、周りの人間を排除すれば親である自分にすがるしかなくなるだろう。そうすればレイも己の手の中に返って来る。何も――問題は無い。
心の中で呟いてサングラスの下で虚な笑みを浮かべるゲンドウ。
迎えのV-TOLが来るまで、彼はずっとそうしてその下には何も眠っていない墓碑を見つめ続けた。
○○○
高嶺邸の庭に柔らかなチェロの音色が響く。
無伴奏チェロ組曲第1番ト長調。
そこは即席のコンサート会場になっていた。
奏者であるシンジの前にはアスカとレイの二人の少女をはじめ、ユウト、アセリア、ユーフォリアの高嶺一家、メイドであるカオリ、ユイとキョウコの母親コンビの姿があった。早い話、リツコを除いた高嶺一家勢ぞろいである。
ちなみにリツコは大学時代の友人の結婚式に顔を出している。
昨日の約束の通り、三人で出かけたシンジ達は、ショッピングや映画鑑賞を十分に楽しんで帰宅した。
そこでカレンダーを見たシンジが気付いた、と言うか、思い出したのであった。
「あ、今日って母さんの命日だっけ」
今はユイはサルベージされているので、この表現は不適当とも言えるのだが、一応公式上は碇ユイは10年前に死亡しており、その日付は十年前の今日である。
そして、シンジにはこの日に毎年欠かさず行っている習慣があった。
それがチェロを弾くことだった。
夏の日差しも夕刻で弱まり、今日は風も涼しかったこともあって、シンジは庭に椅子と譜面台を引っ張り出したのだが、それに気付いた少女たちに捕まり、彼女たちが家中に響く声を出したことで、図らずも即席のコンサートと相成ったわけであった。
最後の一音を弾きおえたシンジが余韻を残すように弦から弓をはずした。
パチパチと、広い空間にそう大きくは無い拍手の音が響く。
盛大な、とは行かないまでもそこにいる全員がくれた拍手にシンジは微笑んだ。
「ありがとう」
「結構イケてんじゃない!」
「……綺麗だった」
満面の笑みでシンジを称えるアスカと、静かな表情の中にも興奮した様子を見せるレイ。
「そうかな?」
二人の少女の手放しの賛辞にはにかむような笑みを浮かべる。
「あら、ひょっとして照れているの、シンジ?」
「ふふふ……可愛らしいわね」
そんなシンジをからかうような母親二人の発言だが、
「まぁまぁ。実際上手かったでしょ?」
とりなすようなユウトの発言に頷いてみせる。
「五歳から初めてこの程度ですから……といっても実際には10年以上になるのか……」
逆行してからの四年間の間には数ヶ月単位で弾かなかった時期もあったが、その中でも練習を続けてきたのだ。まる13年になる。
「ケイゾクは力なりって奴ね」
流暢な日本語を話してはいるものの、ことわざには慣れないのかややおかしな発音でアスカがそういった。
「私も小さいころはヴァイオリン習ってたっけなぁ……」
「懐かしいわね……」
昔を懐かしむ惣流母娘。
「今度デュオでもしてみたら?」
「悪くないわね!」
ユイの提案にまんざらでもないアスカは嬉しそうに答える。
「デュオ?」
「ヴァイオリンとチェロの二重奏のことだよ」
そんなアスカを見て首をかしげたレイにシンジが説明する。
レイはシンジの言葉に納得したようにこくこくと頷くと、
「私も……やりたい」
と言った。
「レイは何か楽器できるの?」
だが、そのアスカの問いには首を振って答える。
「なら、練習すれば良いさ。トリオならフルートかピアノだね」
「トリオ?」
「三重奏のこと。ヴァイオリンとチェロがあると、後はピアノかフルートが入ることが多いんだ」
どうする? と視線で問うシンジに、レイはコクリと頷く。
「やりたい」
「なら、こういうのはどう?」
レイの様子を見たアスカが手を叩いて提案する。
「この戦いが終わったら、三人でコンサートをするのよ。シンジがチェロでアタシがヴァイオリン、レイはピアノかフルートでさ」
どう、と聞くアスカに真っ先に答えたのは母親二人だった。
「いいわね、それ!」
「楽しそう!」
カオリも、
「良い考えですねぇ」
と楽しそうに笑う。
「うん」
レイも少し考えた後にしっかりと頷いた。
「よしっ! 決まりね! コレで負けられない理由が一つ増えたわ」
アンタも良いわね、と言うアスカにシンジは少しだけ微笑んでうなずいた。
そのシンジの微笑みに少しだけ悲しみが混じっていることに気づけたのは高嶺一家の三人――エターナルたちだけだった。
全ての戦いが終わった後、シンジはこの世界にはいない。それどころか、この世界の誰の記憶からも消えてしまうのだ。
○○○
「葛城ミサト、か」
面白い、面白いな、とその影は呟いた。
何処とも知れぬ暗闇の中、その影の瞳に映っているのは、先のイロウル戦時のNERV本部第一発令所の光景だった。
映像を発する機械があるわけでなく、何らかの力によって空間に映像が浮かぶわけでもなく、ただ影の瞳にはその情報が映っている。
その影しか見るもののいない中、映像は進む。
一度は歓声に沸いた発令所。その中で一人、憎悪をたぎらせる葛城ミサト。そして次の瞬間、力を取り戻す神剣の欠片。
そこまで進んだところで、影は一度瞳を閉じる。
それだけで、その影しか見る者のいなかった映像は散じて消える。
「欠片とは言え上位神剣を従えるか……」
思案するように呟く。
その声は若い声にも聞こえるし、老成した響きも感じる。男性の声のようにも聞こえるし女性の声のようにも聞こえる。持ち主の存在をあいまいにしながらも、感情の無い冷たさだけが印象に残る。そんな声。
「葛城調査隊の生き残り……当時葛城ミサトは14歳。恐らくはアダムとの接触に用いられたゼロチルドレン」
何処から入手しているのか、その口に上る情報は一般人はおろかNERV内にもほとんど知る者のないもの。
「つまり……」
なんでもないことのように、影はさらりと己の中の結論を口にした。
「葛城ミサトこそが、アダム……第一位永遠神剣『摂理』……進化の到達点としての淘汰を司りし神剣の契約者か」
面白い、面白いな、と呟くその声にはあくまでも感情は感じられない。
「さて、そのことに気付いているのかな? 混沌に与せし神剣使いたちよ……」
何処までも空虚な冷たさだけが空間に響いた。
あとがき
割合間を空けずにお届けできたんじゃないかと思う、二十六話でした。
TV版でいうとこの「ゼーレ、魂の座」と「嘘と沈黙」に当たるお話です。ミサトと加持がよりを戻したり、地下でリリスを見たりする場面も書こうかとも思ったんですが、あんまり重要でもないかな、と思って省きました。
最後に登場した“影”ですが、えー分かってもらえるとは思いますが、十四話の最後にぽつりと二行だけ登場したお方です。
何かさらりと重要情報を漏らしてくれちゃってますが、別にシンジたちがこのことを知っているわけではないので。
ゼロチルドレンだった、くらいの予想はしているでしょうが。
さて、次はレリエルさんです。この使徒もどうやって倒したらいいのやら悩むところではありますが……
お楽しみに。
今回はこれにて。それでは。